筒井康隆『敵』。
この本は、JIS漢字論的にいうとものすごい本だということに気付きました。といってもまだ途中までだし、「JIS漢字論」って何?といわれそうですが、まあ、聞いてください。
擬音語がすごいのですが、「信子」の章に出てくる「躯躯躯躯躯」には思わず 興奮してしまった。
笑い声「ククククク」に身体性(「躯(からだ)」)を被せているわけですが、実は「躯」の字は78JISと83JIS以降で非互換な字体変更が為された、いわく付きの字なのです。「身區」(78JIS)から、「身区」(83JIS)へ。この非互換な変更は女性の持つ、二面性を的確に表現し得ています。ある時は淑女、ある時は娼婦ように、ってのですね。
さらに変更部分に着目すると「口」と「メ」とが取り出せ、ここから「メロメロ」という語を取り出せる。さらに「口」や「メ」から男女の身体部位を連想するのも読者のお好み次第。「目は口ほどにものをいう」ってのもあったな。
最後に、83JISによる字体変更はけしからんと騒いでいる文学者に対して、「身區」と「身区」とが同一区点位置でなければ表現し得ない<文学>を作り上げ、痛烈なパンチを浴びせている。パソコンは所詮、道具だ。道具なら上手く使いこなせ。ほら、こんなやりかたがあるでしょ。ってな漢字。(二月九日)
換字。
それは83JISにおける非互換敵字体変更によって<思いっきりでっち上げられた>とされる<嘘字>のこと。「鴎」「屡」「涜」などは真っ先に目の敵にされる例だ。
筒井康隆『敵』に登場する森鴎外は、私の見落としがなければ、
古いモノクロの邦画では前進座の映画を好んでいる。トーキー初期の作品なのでいずれも音響が酷いが中でも「阿部一族」などというものは音声が殆ど聞き取れない。どちらかといえば科白の芝居だし何度か見直してやっと理解ができるようになったものの鴎外の原作を知らなければ誰にも珍紛漢紛だろう。(「映画」、247-248ページ)
の一例だけ。新潮社版の『敵』では、「鳥」の左側はむろん「區」だが、電子テキストでは普通、左側が「区」で表示のはず。
この文脈、「前進座」の映画が音声の聞き取りづらさも手伝って、「前進」なる名とは逆に遠い存在として感じる場面。かろうじて森鴎外「阿部一族」との繋がりをよりどころとしてその映像・音声の受容が許されるという状況だ。しかしデジタル化された世界ではその唯一のよりどころである「鴎外」も、非互換的な「換字」の用法により時の彼方へ追いやられてしまう。
デジタル化された、『敵』というテキストの「鴎外」は、そうした重層性を巧みに表現している。そればかりでなく、その重層性に気付いた読者はいかんともし難い非互換的な現実に心を痛めつけられる。とどめは、「珍紛漢紛」で、珍なる漢字により紛らわしくなった「鴎外」が読みとれてしまう仕掛けなのだ。
も一つ印象深い非互換的「換字」を挙げれるとすれば、それは「屡」だろう。
自慰だけで我慢できなく時が屡しば訪れるがそれは鷹司靖子や菅井歩美という性的 対象として好ましい女性が現実に存在しているからだ。(「性欲」、109ページ)
誰のことを考えてするのかと屡しば訊いたものだが儀助が五十歳を過ぎた頃から は一度だけ「今でも自分でしてるの」と訊いただけで以後は訊かなくなった。 (「信子」、172-173ページ)
『敵』では「屡」をしばしば「性的」な場面で用いている。ここでは二つを挙げておいた。1978年に制定された最初のJIS漢字(78JIS)では「尸」に「婁」を書く字体であったものが、1983年の改正(83JIS)で「尸」に「米」「女」を書く字体に変更されたのである。これが、非互換的な字体変更であるのはいうまでもないのだが、実態としていえば、83JISの「屡」は、手書きにおいて、それこそしばしば用いられていた字体である。偶目の例で恐縮だが、森鴎外自筆の「舞姫草稾」にも使われている。
「屡」という漢字には「女」が含まれていて、性的表現にふさわしい文字遣いである。そして、「屡」をJIS漢字論的に観察すると次のようなことが指摘できる。従来メモなどに用いて人に見せることをことさらに意図しない手書きの字体を、よそゆきの局面(対他人)で用いてしまった(しまわざるを得ない)恥ずかしさ。加えて、生身の手でもって文字を「書く」という動作の持つ身体的な運動性が電子テキストの中でこそ、奇妙な生々しさを伴って読みとることができるという仕掛け。むろん、「自慰」と「手・カク」との間に連想関係を求めることは容易だ。「自慰」「カク」「書く」から物書きとしての主人公渡辺儀助の在りようの暗示ともなっている。(二月十一日)
顛字。
これも83JISの所業。区点位置が顛倒された異体関係にある漢字のこと。腸捻転字との呼称もあるようだ。
『敵』というテキストの中で、「顛字」として絶妙の使われ方をしているのは、たぶん「渡辺槙男」という人名に使われる「槙」の字だ。
「槙(木真)」は78JISにはなかった。1981年、人名漢字に採用されたことに伴って83JISで追加されたのである。その追加の仕方は単純でなく、説明が面倒だが、だいたい次のようになされた。78JISで「木眞」であった区点位置の字体を「木真」に変更し、場所を失った「木眞」を文字表の最後の部分に追加したのだ。図示すれば
第一水準 第二水準 78JIS 木眞 (なし) 83JIS 木真 木眞
となろう。
「真」という部分字体を持つにも関わらず、それが可変的であり、不安定な状況におかれていること。主人公渡辺儀助はこの槙男に遺産を相続させようと考えているのだが、その相続する槙男の存在すべき位置が電子テキストの世界では保証されていない、あるいは保証されないことがあり得るのだ。つまり「槙男」という人物の同定作業は、電子テキストの世界では実は保証されていない。現実と非現実、あるいは現実と超現実、両者の渾然一体とした世界の描写、これは電子テキストの中でこそよりいっそう際だつ。
ついでにもう一つ、典型的な「顛字」の例として「儘」と「侭」を挙げておこう。例文の引用は略すが、「ママ」という音声は確保されるものの、その姿が確定せず、顛倒する点に現実か夢か、どちらともつかぬ世界が巧妙に描写される。このことをいっておけばとりあえず充分だろう。(二月十一日)
傑字。
JIS漢字の鉄人により、新たな意味が発見・創造された、傑作の文字。「けつじ」。字数は確定できない。今後、発見の可能性も高い。
私の知る範囲で、最も「動悸動悸」する傑字は「妛」(やまいちおんな)である。本来は、上に「山」、下に「女」と書いて「あけび」と読ませる漢字であった。ところが、「山」と「女」とを切り張りして字を作ったため、切り張りの影が「一」のように残っていた。それを字画の一部と誤認してしまい、結果的にそのままJISに採用されたというのである。この事実を突き止めたのは、笹原宏之JCS調査研究委員会委員。JIS漢字鉄人第一号と呼ぶのに異論はなかろう。
「山女」を「あけび」と読むことについては、形態的な問題が絡むものであり、煩瑣となるので、説明は省略する。
わざわざいうまでもないことだが、筒井康隆は、驚嘆すべきJIS漢字の使い手である。難字や僻字を用いたり、私のいう「換字」や「顛字」を意図的に頻用する章が ある一方で、問題となる文字は一切使わないで書き上げた章もある。
たとえば、「講演」と題する章は後者の例だが、その中に見える
どのような聴衆であろうとよくわかるように面白く 話している自信が儀助にはある。(30ページ)
といったくだりは、筒井康隆の表現者としての自負がよく代弁されている。「漢字が足りない」などという弱音は吐かない。もしパソコンで使える漢字が増えるようなことにでもなれば、筒井康隆はどのような作品を我々に見せてくれるのであろうか。楽しみである。
『敵』というタイトルにしても、ワープロで「テキ」と入力し、変換させてみると、その隠された意味がさまざまにあぶり出されてくる。
『敵』の最後は「水滴」の音で終わる。「敵」とは「滴」のことだったのだろうか。 (二月十一日)