岩崎文庫所藏古鈔字鏡解説

岡田希雄

岩崎文庫所藏字鏡零本二册【但し後で説く通りに、これは元來一册であつたものである】は、他との混同を避ける爲めに、自分が「眞本世尊寺字鏡」と呼ばうとするものにて、新撰字鏡・類聚名義抄・字鏡集・古本和玉篇〔ワゴクヘン〕類などゝ同種類の不完全な部首分類式漢和辭書である。零本にして、しかも首尾が缺けて居るのだから、卷數・撰者・撰述年代などは不明であり、書名も亦、實を云へば字鏡と云ふのが本來の名であるのか何うかも疑はしいものだが、愚案に據ると、本書の完全な形は、現在の二册の三倍乃至數倍のもの、――即ち三卷本か、または四・五卷ぐらゐのもの――であつたらしく、撰述時代は、平安朝末期であつたらうか。鎌倉初期の古鈔本としての骨董的價値はさておき、國語學上、殊には日本辭書史上で注意すべき書である。漢字研究上の小學的價値の存するのも勿論の事である。

本の體裁は複製本で見るが如き普通の册子【綴目は五箇所あり、綴絲は白色】にして縱一尺七分ぐらゐ、横九寸一分足らず、厚さ第一册四分位、第二册五分位、書皮は金泥・藍の雲流しの描模樣【模樣は二册の書皮四枚は何れも異種のものである】見返しは金銀の砂子・箔散らし、本文用紙は斐紙にして 一枚兩面書きであり、袋綴では無い【故に複製本で見ても窺はれる通りに、裏頁の文字が表へしみ通つて居るものも存する】しかしてこの裝mojikyogifによりて本書が書寫せられた當時の體裁を想像する事は不可能であるが、先づやはり帖本であつたと見るには及ぶまい

さて本文は各紙に縱は七線、横は五線の白界を施して【此の白界は複《原作復》製本に於いても、かすかに現はれて居るところがかなりにある】各頁六行四段に書いてあり、水浸〔シ〕みもあり、虫損も少々は存するが【所々、 薄紙を表面よりはりて修補して居る】大體から云つて保存は良好である。本文丁數は第一册七十八丁、第二册百七丁、各册の扉に存する字鏡の二字を除けば大部分は一筆にして、後人加筆と覺しきは至つて僅少である。其の加筆は筆勢が異るし、又大ていは各部首所屬文字群の終りに存するのだから、識別は困難で無い。朱筆は標出漢字や漢文義註・片假名訓註などの合點として、また漢字や片假名訓註の聲符としてすこし存する。複製本では朱筆は、墨色よりも淡く現はれて居るから、これも識別は必ずしも不可能ではあるまい【但し片假名訓註の聲符が不明瞭過ぎるのは遺憾であるが、原本の朱がすでに淡いのだから致し方も無い】

「篇」即ち部首の種類は左の如くである。

第一册

  第八 目(【但し本文は首缺く】)   第九 mojikyogif   第十 广(附鹿)   第十一 厂
  第十二 行   第十三 彳   第十四 足   第十五 心
  第十六 mojikyogif   第十七 冫   第十八 魚   第十九 鳥
  第二十 山(【但し本文は中斷せられて第二册へ續く】)

第二册

  第二十 山(【第一册の尾へ直ちに接續す】)   第廿一 凵   第廿二 衣   第廿三 門(附鬥)
  第廿四 mojikyogif   第廿五 卷(mojikyogif)  第廿六 奉(mojikyogif)  第廿七 mojikyogif
  第廿八 禾   第廿九 米   第三十 食   第卅一 mojikyogif
  第卅二 囗   第卅三 口   第卅四 亠   第卅五 享
  第卅六 高(mojikyogif)  第卅七 mojikyogif   第卅八 缶  第卅九 豕
  第四十 支   第四十一 mojikyogif  第四十二 斤   第四十三 戈
  第四十四 弋   第四十五 尋(mojikyogif)  第四十六 mojikyogif  第四十七 子
  第四十八 由   第四十九 mojikyogif  第五十 mojikyogif   第五十一 矢
  第五十二 巴   第五十三 予   第五十四 mojikyogif   第五十五 气
  第五十六 共(八)  第五十七 一   第五十八 生   第五十九 mojikyogif
  第六十 卩   第六十一 韋   第六十二 歹   第六十三 mojikyogifmojikyogif
  第六十四 mojikyogif(殳)  第六十五 巾   第六十六 欠   第六十七 寸
  第六十八 勹   第六十九 斗   第七十 雜

第一册の首にはかなりの缺脱の存するのは明らかだが【此の事は下に於いて説く】第二册の尾も、最終の頁が餘白無しに全部使用せられて居るのを見ると、此處にも缺脱が有りさうである。しかして第一册と第二册との分け目のところは何れも山部の中であり、第一册の最終頁と第二册の最終頁とは、餘白無しに使用せられ居り、字形も第一册の最後の「mojikyogif」と第二册の最初の「mojikyogif」とで相似して居り、兩頁の虫損も全く一致するのを見ると、此の岩崎本は、元來一册であつたものが、後人により便宜上勝手に、分册す可からざる場所に於いて分册せられたものである事が判る。しかして此の部首の數と種類とを見るに、辭書として是非存せねばならないところの有りふれた有力な部首、例へば日月雨風火水イ身頁貝口舌耳鼻手皮毛言骨尸女刀糸酉馬牛角革舟車土石谷玉田金木草竹羽羊虫走mojikyogif邑阜鬼弓隹宀穴皿立の如きが無いのを見ると、是れらの部首を採録した卷が、著者自筆本に於いて最初より缺如して居た――即ちこれらの部首に關係した部分を著述せなかつたのだ――とはとても考へられないから其れらの部首を含む部分は、岩崎本では遺憾乍ら失はれて居るのだと見る他は無い。しかして其れらの部首には、所屬字數の多いものも多いのであるから到底一卷では收まるまい、恐らくは、少なくともまう二卷ぐらゐは必ずや存したものであらう。【因みに、註文中に「在羊部」「在木部」「在大部」「在角部」などゝ書いてあるものゝ存する事によつて、本書が零本である事を想像するのは、是れらの註文が新撰字鏡と共通であるが爲め不穩當と成る】要するに岩崎本は全體としては少くとも三卷本ぐらゐは有る可き ものゝ最終の一卷【雜篇が存するから最終の一卷であらうと見て置くのである】にして、しかも首尾の缺脱したものが、後人により二册に分册せられたものである。

其の失はれた分量は、第二册の方は想像もつかないが、第一册の方は見當がつく。即ち第十一丁表の綴目のところに「四十□」とあり、又一枚置いて前の第九丁表の綴目のところにも「四十□」とありて、此の方は「四十六」と讀み得るのだが【此の數字のこと、自分は複製本を見て氣づいたのであり、今は自身で原本について檢する機會が無いから、果たして「四十六」であるか何うか、此の他にも、斯う云ふ數字が存するのであるか何うかを知らない】此の數字は、岩崎本を書いた人が、紙の順序の混同を避ける目的で施した順序數詞であると認められる【本文と同筆であるか何うかの調査を、鈴鹿三七氏に御依頼したが、同筆と見て支障あるまいと云つて居られる】して見ると、此の第一册は、現在の第九丁が、完全な本としては第四十六丁目に當る事は明らかだから從うて、第一丁より第三十七丁に至る部分が失はれたのだと云ふ事に成る。故に岩崎本二册の原形は

  (【首に於いて失はれた紙數】)37枚+(【現存第一册の紙數】)78枚+(【現存第二册の紙數】)107枚+(尾に於いて失はれた紙數】)不明=222枚以上

と云ふ風に、少くとも二二二枚(四四四頁)以上の厚册であつたのである。

本書を見た場合に、必ず想到せられるのは新撰字鏡の事であるが、まさしく本書は一部首中の文字群配列に於いて、又其の註文に於いて、明らかに新撰字鏡と密接な關係がある。しかして兄弟關係であるか、親子關係であるかは、容易には明言し難いが、自分は直接の親子關係であらうと見て居る。しかして新撰字鏡には、天治本系統のものと、享和刊本の如き抄出本の親本系統のものとが存するが、此の中の何れのものと本書が關係を有して居るだらうかと云へば、其は天治本系統のものである事は、鳥篇の「鵤」の意味不明の註文 「伊加鳥 留賀入保」の一つからでも云へるやうだ。しかし、天治本系統のものではあつたが、無論天治本其のものでは無い。

本書の成立には、新撰字鏡以外にも、參考書が採用せられた事であろうが、其れらは無論不明である。まゝ存する論語・漢書音義・春秋・古今注・通俗文・廣雅などゝ云ふ書名は、寧ろ孫引と見る可きであらう。「出内典」「已乙内典」「未乙内典」【乙は訓字の略體】と云ふやうな註文は、類聚名義抄所見のものと比較すべきであらう。

本書には、「世尊寺殿伊房卿字盡」と云ふ鑑定押紙が存し、【裏に「茂内道順」を二行にした印あり】堀川天皇頃の入木道の大家從二位權中納言伊房【權大納言行成の孫、永長元年九月廿二日薨六十七歳(中右記による)。正二位であつたが從二位に貶されたのである】の筆であるとして居るが、本書の舊藏者たる和田雲村翁は、其の訪書餘録の中で「鎌倉初期の寫本なるべし」と云はれ、現在では此の雲村翁の鑑定が認められて居るやうだ。しかして本書の片假名訓註には、原著者として犯しさうに見えない誤字の存する事を見ると、本書は轉寫本であつて、著者自筆本では無く、本書の著述は鎌倉初期以前であつた事に成る【此の事は一概論は不可能であるが、岩崎本に於ては、著者自筆本で無いと思ふのである】しかして漢和辭書としての日本化の程度が新撰字鏡よりは甚しく、類聚名義抄よりは少い事、又一部首に屬する文字數が概して、新撰字鏡より多く、名義抄よりは少い事、から察すると、證據こそは擧げられないが、平安朝末期のもので、或ひは堀川・鳥羽兩朝頃のものでは無いかと認められさうに考へる。國語學的觀察により推定するのは至難であるが「從」字の訓として存するコトモナシと云ふ語の形を天永四年三月藤原茂明點白氏文集卷四【古典保存會】「古塚狐」の「好〔ヨシ〕〈ムナシ〉」(【此のムは撥音ンであるらしい】)や、「保延四年【戊午】四月二日移點畢」とある文鏡祕府論【東方文化叢書本】の「好去〔コトムナク〕」【二例あり】「好〔コトム(虫)キヲ〕」「好〔コトム(虫)〕」(【これらのムは撥音ンであるかも知れない、本書は國語撥音を標記するに、ンムを併用し、また何も書かない方法をも採用して居る】)や、前田侯爵家の壽永年中書寫三卷本色葉字類抄の「好 コトムナシ 喜從 已上同」などと比較するのも必要であらう。とにかく自分の主觀から云へば、名義抄よりは古く、新撰字鏡よりは新しいと思ふ。時代から云ふと、 伊房の時代に擬しても可いのかも知れない。

が古筆家が伊房の筆【自著自筆の義であるか、轉寫の義であるかは不明である】に擬した理由は判らぬ。是れが手鑑による獨斷ならば問題は無いが、若し、本書は伊房の著述であると云ふ云ひ傳へが古くより存したとか、または、本書が伊房の著述である事を示す文句が本書の完本には存したのであるとか、若しくは伊房の眞筆本なるものが此の岩崎本以外に別に存した事もあつたとか云ふやうな事情がありて、伊房と本書との關係が明らかに認められて居たが爲めに、岩崎本を伊房眞筆本と認めたのだと云ふのであるならば、伊房筆と云ふ鑑定も、著作年代や著者を想像する材料として捨てられない。しかし乍ら、今は此の古筆家の鑑定を認めしめるに足る材料は無いらしい。自分は、本書の如きも一無名緇徒の努力の産物であつたらうと假定したい。

本書には兩册ともに卷首に「字鏡」と大書した扉が存するから、本書の書名は明瞭であるのだが、實は決して明瞭では無い。蓋し岩崎本は既述の通りに、首尾の缺けた本であつて、首題尾題の存する筈が無く、しかも此の扉は、後人により分册せられてから後に、別紙が添へられ、其れに題せられたものなる事が明らかであるからである。然らば扉の筆者は、如何なる理由ありて字鏡と題したのであらうか。是れに就いては

(甲)岩崎本以外に別の傳本が存し、其れには字鏡と云ふ書名がまさしく存したが爲め、もしくは、本書の如き本文を有する字書は、字鏡と云ふのが本名である事が明らかに判明して居た爲めに、字鏡と記したのである。

(乙)本書の正しい本名は知らずして、たゞ字書なるが爲めに、しかして斯う云ふ類の字書は字鏡と普通に呼ばれて居たが爲めに、普通名詞的に字鏡と記したのである。【こゝに云ふ字書は韻書などに對する場合に云ふ字書にして、字形による分類の辭書の義である。辭書は範圍廣く、字書は狹い】

と云ふ二つの場合が想像せられる。後の方について一言すると、新撰字鏡十二卷、字鏡抄零本一册【自分の貞應無名字書と呼ぶもの】字鏡集【七卷本廿卷本】字鏡鈔【三卷九本、國語學書目解題所見。按ずるに字鏡集七卷本の零本なるべし】字鏡鈔【一卷又は六卷、爲長卿作か、永仁頃の本朝書籍目録所見のもの】字鏡集【一册、靜嘉堂文庫藏古鈔本、自分の「古本和玉篇」と呼ぶものにて、元龜字叢と一類のもの】などゝ云ふ風に、部首分類式辭書には字鏡と云ふ名のものが多いので、此の事から、「玉篇〔ゴクヘン〕」と云ふのが部首分類式漢和辭書の義と成つたのと同じやうに、「字鏡」と云ふ言葉も亦、普通名詞化した事情を認めようとするのである。

しかして、此の何れであるかは、本より證據が無いから不明だが、本書が新撰字鏡の影響を受けて居る事から考へて、自分は、やはり字鏡を以て――其れが本名であるとは斷言は出來ないが――本書の書名として置く。しかし乍ら、單に字鏡と云ふだけでは、新撰字鏡が、大治四年九月九日mojikyogif實執筆の「相好文字抄」以來、字鏡とのみ呼ばれ勝ちであつて、混同を生ずる惧れがあるから、古筆家の鑑定に因みて《この6文字に傍点》「世尊寺字鏡」と呼び、更らに「眞本」の二字を冠せしめようと思ふ。蓋し「僞本」と云ふべき世尊寺字鏡なるものが別に存するからである。其の僞本と云ふのは、赤堀氏の國語學書目解題に「字鏡 五卷、缺本、寫本」とあるもので、四卷と附録一卷計五册、

  癸酉歳以 世尊寺中納言殿手書原本校合畢(【○第二卷の尾にあり】)
  因 世尊寺中納言殿手澤原本以墨點校合(【○第三卷の首にあり】)
  字鏡附録二十又五枚因 世尊寺中納言殿手澤原本校合畢 歳之癸酉(【○附録の尾にあり】)

などゝ書いてあるから、【赤堀氏所引のものと、今引いた東京文理科大學本所見のものとで二字の相異が存する】黒川春村【字鏡集はしがき】に「世尊寺中納言家の本」として、宗淵大徳の法華經考異・法華經山家本裏書、山田博士の新撰字鏡攷異などに「世尊寺本字鏡」として引かれて居るものであり、「字鏡と云ふ字書の缺本を綴りあはせたもの」と赤堀氏が云はれるものであるが、本文〔テキスト〕【自分は二本を見た、未見の秋葉義之舊藏本は黒川春村の本を寫したものと云ふが、やはり此の種のものである】に就いて吟味すると、岩崎本によりて窺はれる眞本世尊寺字鏡の一部に、眞本とは無關係と考へられるものをよい加減に加へた言語道斷無下の本であるらしい。按ふに、古筆家が世尊寺伊房の筆であると鑑定した岩崎本の存することを知り、其の一部分位を見たり、寫したりした事のあるものが、僞作意識を働かして、一部分は大體岩崎本を眞似て――虫損痕模寫の一致するものもある――しかして大部分は恐らくは、世尊寺字鏡とは無關係に私意を以て、書き加へ斯う云ふ無下の僞本を作り上げ尤らしく識語まで加へたものと思ふ【世尊寺中納言が伊房の事であるのは云ふまでも無い、世尊寺家で世尊寺中納言と呼ばれる人は伊房以外には無いのである】とにかく自分は此の五册本を以て僞本と認めるのである。僞作せられたのは徳川中期乃至末期であらうか。斯かる僞本が存するから、岩崎本を呼ぶに、眞本世尊寺字鏡を以てする必要もあるのである。

さて斯くの如くに、世尊寺字鏡には眞本と僞本とが存し、自分は僞本の引用せられて居る事は知つて居るが、眞本の引用せられて居るのは、寡聞にして未だ氣付かないのである。しかし眞本は岩崎の古鈔殘缺零本の轉寫本が無い譯では無く、現に宮内省圖書寮所藏七册本【徳川末期寫本か各頁三行三段】堂上家廣橋家舊藏本で京都帝大現藏の二册本【大本各頁五行四段、徳川中期寫本か。かなり忠實な寫本であるが、數行の書きもらし、書きもらしたが爲めの補記などがある。誤字の存するのは云ふまでも無い。しかし岩崎本の手擦れ不明を本書により補ひ得る利益もある】の二本が存し、後者の如きは、一頁の行數の相異を除くと、分册の情態も全く岩崎本と一致する。他にも岩崎零本の轉寫本もあらうが、しかし何れにしても、從來は其の轉寫本さへ稀覯本にして見易すからず、幸ひ見る事を得ても、轉寫本なるが故に、國語學的研究の材料とする事も、對象とする事も躊躇せられたのであるが、今や、著述の時代を去る事遠くないと思はれる鎌倉期古鈔本が貴重圖書影本刊行會により複製せられたのである。われわれ《後の「われ」はくの字点》は其の複製を賀すると共に、更らに、望蜀の情として新しい轉寫本でもよいから、全卷完備の本の發見せられむ事を切望するのである。 岩崎古鈔本については、當然、國語學に關する事項に就いて言及せねばならないのであるが、冗長になるのを惧れるが故に、其の説述は詳しい書誌的説明と共に是れを別の機會に讓り、今は上述の如き極めて簡單な解説で濟ませる次第である。

  昭和八年八月十一日


(『字鏡』貴重圖書影本刊行會、昭和8[1933]年9月15日)

著者の岡田希雄は、明治31[1898]年生まれ、昭和18[1943]年没。著作権は消失している。原文の割注二行書きは【】内に入れた。右訓は〔〕内、左訓は〈〉に入れた。《》内には池田の注記を入れた。

入力・校正。2000年5月17日。


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