最終更新:2001年8月23日

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池田証寿/shikeda@Lit.Let.hokudai.ac.jp

ページの趣旨

文字(特に漢字)をめぐる話題に関してちょっと気になることをメモしておく。

『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』寸感

【2001年8月23日】 西谷能英氏の著作『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』(未来社)に対する書評がいくつか出て、それに対する反論も著者から出され、ずいぶんにぎやかである。それを見て感じたことがあるので、書き記しておく。

西谷著は「印刷業界初の」「革命的技法」(帯)と自賛する。西谷氏の想定する「業界」は、『執筆篇』を読んだだけでははっきりしなかったが、反論を読むと、人文系の専門書を主とする分野(そのなかでも特に思想や文学が中心)がということがわかる。そういう業界では、著者も編集者も、テキストファイルについての理解が十分でない、というかあまりに遅れている。そういう状況を何とかしたいという思いで西谷著は書かれている。人文系の専門書の出版に関わる著者や編集者向けのマニュアル本としては、たぶんいい出来になっている。

これに対し、前田年昭氏は「専用ワープロ全盛の時期から現在のパソコンにおけるワープロソフトの時期にいたるまで,組版・印刷業の現場ではMS-DOSテキストファイルを介して互換をとるようほぼルール化され,すでに20年以上が経つ。いまさら「出版業界初の提言!」「革命的テキスト技法」(帯)という,どこに新味があるというのだろうか。」と批判する。「出版業界」ということばを、文系、理系を問わず、「出版」業界全体として捉えた上での発言であり、その意味ではごくまっとうな批判だと思う。

つまり、西谷氏は、(人文専門書を主とする)「印刷業界」を前提にし、前田氏は(日本の)「印刷業界」を前提にして話をしている。話がかみ合わないのは無理もない。

西谷氏が、人文専門書を主とする「印刷業界」を前提してもいっこうにかまわないのだが、それを暗黙の前提にして他者に強いるようなところが感じられ、そのあたりがこの著作に対する評価の分かれ目になる。

MS-DOSテキストファイルだろうが、Wordや一太郎のファイルだろうが、場合によっては、LaTeXのファイルだろうが、著者の好きなファイル形式を使い、編集者サイドでそれらに対応してくれるのが一番いいと思うが、それを望むのは難しいことが西谷著をめぐる一連の話の中でよく分かった。

Linux開発者の自伝

【2001年6月日】 芝野耕司さんから,今ちょうどリーナスの自伝を読んでいるんだ,という話を聞いたのは,確か二週間ほど前だった。その感想は残念ながら聞きそびれた。というか,読んでないなら,面白いから読め,というところだろう。つい先日,勤務先の大学の書店へいったら平積みされていたので,ああこれかと思い,早速買って読んだ。

面白い。そんなに売れないと思うが,間違いなく残る本だ。

「包摂」の独り立ち―西垣通・ジョナサン=ルイス『インターネットで日本語はどうなるか』―

【2001年5月26日】 いかにも岩波書店らしい本。2001年3月26日第1刷発行、2000円。 「日本語」のゆくえを 英語公用語化論からはじまり、インターネット多言語処理と機械翻訳の技術の 動向をふまえて論じる。カバー裏の「世界中を巻き込んで、いまホットな 論争を呼び起こしているテーマのイロハを、誰にも分かりやすく、 丁寧に説明する絶好の概論書」という惹句は本書の特色を的確に 言い表している。おそらく、いろいろな方面から批評がなされる ことになるだろうが、バランスのとれた記述で、 好意的に迎えられるのではないかと思う。

文字コード、それも日本の漢字コードだけを考えてきた私のようなものには、 視野の狭さを鋭く突かれているようである。論争というのは、相互に対立する 意見の応酬だが、実は互いに共通する観念が潜んでいることをあざやかに 解き明かす。西垣は 「率直に言うと、われわれ日本人は、二十一世紀に起きると予想される言葉の 大変革にたいするセンスにあまりに乏しいのである」(はじめにxvページ)と 断じてはばからない。 「マスコミをいろどる英語公用語化論も、また逆に漢字の国際共通コード化をめぐる 議論も、みなその顕現」(同)と見る。

音声、手書き文字、活字、電子文字という四段階の変換プロセスを論じるが、 その活字から電子文字への変換について、次のように述べる。(赤字は池田による。)

活字は音声よりはるかに「デジタル化」されているが、それでも手書き文字の 図像イメージの一般形であり、それゆえ身体的なアナログの性質をとどめている。 だが、これが0と1からなる文字コードに変換されたとき、言葉のデジタル化は 完成する。 もはや、電子文字となった言葉は永遠に保存され、 送受信され、編集されることができる。 だがその代わりに、失われるものもある。 それは、複雑多様な活字のあいだの繊細微妙な相違だろう。(はしがき、ixページ)

コンピュータで使えなければ文字ではないといったのは、 確か當山日出夫だったと記憶するが、西垣はそこをはるかに通り越して 「もはや、電子文字となった言葉は永遠に保存され、 送受信され、編集されることができる」という境地に達している。 そうか、「電子文字となった言葉は永遠に保存され」るのだ。 そこまでは知らなかった。「永遠に保存」というのは実にドキリとする、 夢のある物言いだ。しかし、これは一つの神話の創造ではないか。 でなけば、あまり上等でないレトリックだ。

上の引用に続けて次のように書いている。

問題はここにある。「デジタル化(記号化)」とは本来、 同じ意味作用を持つとみなせる対象を「包摂(ユニファイ)」 していく作業だ。その長所は雑音に強く、コミュニケーションの射程が長いことだが、 一方、短所は微妙な部分が捨象されてしまうことだ。LPレコードとCD(コンパクトディスク)を比べれば明瞭だろう。CDは年月を経ても雑音は入らないが、LPレコードの 温かい身体的共鳴を懐かしむ人は多いのである。

デジタル化はつまるところ「包摂」作業であるという、 文字コードではおなじみの用語である「包摂」が説かれている。まあ、それはそれで 正しいと思うのであるが、そして「広義のデジタル化は、 電子工学の域をこえ、すべての生命体に関わる基礎的情報概念にほかならない」 と話を広げていくのも、著者の視野の広さを感じるのであるが、少々引っかかるものがある。

私が引っかかったのは何なのだろうか。本書の「はじめに」で 引っかかった感覚は、読み終えた後も消えなかった。しばらく、その理由を 考える日々を過ごした。その理由はたぶん、次のようなことだろう。

一つは、文字コードで「包摂」という用語を使い始めたのは、 JIS X 0208:1997からであるが、それに触れることがないという点である。 それまでのJISは「同値」と呼んで規格の「解説」で概説的に触れていたものを、 JIS X 0208:1997は、「包摂」と呼び直して再定義し、網羅的なリストを作成し、 単なる解説ではなく、規格の「規定」に格上げしたのである。充分に大きな仕事 だったと思う。

もっとも、こういったことがらは、「学説史」に属することで、「概論書」には不必要 という判断が働いたのかもしれない。そうした事情は、分からないわけではない。 だがしかし、何か問題をすり替えてしまった、あるいは一般化しすぎてしまった 印象が残る。

確かに「包摂」という考え方自体は、JIS X 0208:1997以前から あるものだし、Unicode/ISO 10646の統合漢字のユニフィケーションという先例もある。 統合漢字については 「CJK-JRGの後進であるIRG(Ideographic Rapporteur Group)の学問的な 努力はその後も一貫しておこなわれているのである」(119ページ)と 評されるのに、JIS X 0208:1997の包摂規準の策定は一顧だにされない。 私は、こうしたところに日本の文字(漢字)に対する自明性を感じてしまう。 西垣が言うとおり「われわれ日本人とは、地球上でも珍しいほど、 国語のなかにドップリつかり、言葉というものを客観視できない特殊な 人びと」(はじめに、xvページ)なのだ。JIS X 0208:1997の包摂規準は 日本の漢字を可能な限り客観視した作業であったと私は考えるのだが 、こうした主張を本書の著者はどう考えたのであろうか。どうにもそれが 読みとれないのである。

もう一つは、今の主張とまるで反対の考え方なのだが、西垣が「包摂」概念を 説明するに際して、JIS X 0208:1997などを持ち出したり、ことさらに 言及しなかったことは、規格の改正にあたった側の人間としてはむしろ喜ぶべき であるという点である。いささか屈折した物言いに聞こえるだろうが、 JISというものがそもそも何のために作られるのかという視座から、物事を 考え直してみれば、文字コードに「包摂」概念が必要不可欠であると 結論付けたことは、素直に喜ぶべきことなのである。

JISは、規格として制定されるだけではなく、それが実装され一般に普及 することによって標準化という目的を達成する。たとえば、ネジの規格(JIS)が あるが、ネジを使う人はどのように規格が決められたかなど意識しない。 規格化されたネジを無意識的に使うだけの段階に到達して規格策定の目的 が達成されたことになる。この事情は、JIS漢字とて同じ。 コンピュータで空気のように文字(漢字)を使える状態が理想である。 不便なところが多少あっても、ユーザには改良のための苦労を見せずに、 短期間に問題を解決していく。こういうのがモノを作る側の理想であろうと思う。 SMAPのクサナギ君が、最近のパソコンではナギの難しい漢字が 出るようになったんですよ、という話をだいぶ以前の「徹子の部屋」 でしていたらしいが、作り手側からすれば、それが最大の誉め言葉である。 (どのような方法で実現したか、多少問題があるが、話の流れに関係ないので、 うるさいことはいわない。)

JIS X 0208:1997の目指したのは、符号化方法と文字集合の「明確化」である。 「包摂」概念の独り立ちは、 JIS X 0208:1997の目指したところが次第に 了解されてきたことを示すものだろう。ここまで来るのに4・5年というところで あろうか。

JIS X 0208:1997の功績が無視されたなどとひがむことはやめよう。 そんなケチな話ではなく、 まるでサブリミナル効果のように、その概念が文字コードをめぐる議論に 浸透したことを喜びたいと思う。

まあ、あえて皮肉めかしていえば、時流をうまく捉えて「概論書」を 出すのは、いかにも岩波書店らしいな。

鎌田正『大漢和辞典と我が九十年』(大修館書店、四六判、342頁、2,500円)

【2001年5月25日】今日届いた大修館書店からのダイレクトメールを 見ていたら、鎌田正『大漢和辞典と我が九十年』が目に入った。新刊ではないらしい。 うかつにも見落としていた。次の説明文が記されている。

明治大正期の農村で過ごした幼少期、そして学生時代。 兵士として従軍し、九死に一生を得て帰還。その後、 漢学者として活躍し、四期にわたる『大漢和辞典』の 大事業に報恩感謝の一念で情熱を結集した著者の、激動の 90年の物語。

その後、http://www.books.or.jp/で検索すると、2001年4月の発行、ISBN 4-469-23214-9であった。新刊だが、地味な本なので、さほど宣伝していないという ことか。

山本芳明『文学者は作られる』(ひつじ書房)

【2001年5月7日】山本芳明『文学者は作られる』(ひつじ書房)を読了した。全体は十一章からなる。各章の内容はもともと独立して発表されたものであり、それぞれに完成度が高く、それらが全体として一つの主張をなしているのは立派。力の入りすぎるようなところもなく、かといって老成したような物言いもない。読んでいて引っかかるような感じはなかった。

で、話は【2001年4月27日】の項に記した、松本功 に「15年寝ていても罰せられない人」とされた西川祐子の批評。「学術論文という制度の文体」という表現が適切かどうかは保留するが、次の二点に関しては山本の著作に多少の違和感を感じたことを書き記しておきたい。

  1. 引用が多い
  2. 図表が少ない

「引用」は、いわば証拠としてあげているのだし、おそらくその探索に相当の労力がかかっていると想像される。私も引用の多い論文を書くので、天に唾するようなものだが、学生にレポート作成を指導する際には、引用は三分の一以下にしなさい、などともいっている。

『文学者は作られる』の表紙は田山花袋と徳田秋声の誕辰祝賀会の写真が使われており、効果的と思うが、本文の方は全般に図表が少ない。少ない中でも「有島武郎著作集の版数」(257ページ)はよくできた表でわかりやすい。各章の内容を端的に示す表や図が各章に一つずつあるといいのに、と思った。さらにいうと、「大正八年下半期の東京堂調べの新刊書ベスト二〇」などを、箇条書きでなく、文中に、1…、2…と列記するが、ここは読まなくてもいい、といっているようで、少々印象が悪かった。

「学術論文という制度の文体」をどう考えるかは難しいが、上に指摘した二点がそれに関わるとするならば、西川の批評の言うのももっともだ、と私は思う。その程度のことをいうのに「制度」といった、たいそうな用語を用いること自体が「15年寝ていても罰せられない人」のなすことだ、というなら松本の言い分ももっともだと思うが、ポストモダンだとかなんだとか出てきた時点で、私などに口を挟む余地はなくなった。

15年寝ていても罰せられない人

【2001年4月27日】「15年寝ていても罰せられない人」はひつじ書房の房主松本功の文章。山本芳明『文学者は作られる』(ひつじ書房)の紹介が『本とコンピュータ』最新号に掲載された。紹介しているのは、西川祐子。この文章に対して、松本は「最後がひどい。学問の枠をこえてほしい、と来た。」と述べ、書物というメディアの意味を展開する。西川の紹介文は少し前に読んでいたし(斜め読みだが)、「学問の枠をこえてほしい」といった物言いは、確か、私にも記憶があった。原文にあたると、「学術論文という制度の文体を越える必要があるのではないだろうか」という発言になるが、趣旨は「学問の枠をこえてほしい」と同じである。西川の批評に、私は、一般向けを意識して書けばもっと売れそうな本になるだろう、ニュアンスを感じた。そういう意味では、『本とコンピュータ』という雑誌の路線を意識した、社交辞令的な批評に落ち着いている。

私は、『文学者は作られる』を読んでいない。しかし、ひつじ書房の房主の西川に対する批判を読むと、もっともだとも思われてきた。「15年寝ていても罰せられない人」というタイトルからも察せられるように、熱く語っている。いまどき熱く語れる人は少ない。気になったので、書店に行って『文学者は作られる』を買ってきた。

『文学者は作られる』を手にとって表紙と帯をつらつらと眺める。一見、地味。しかし、表紙の「文学者は作られる」をじっと見ていると、仕掛けがある。「学者」のところだけ目立たないように書体をかえている。なかなかやるなあ。「文は作られる」×「学者」=「文学者は作られる」という式になるかどうかは定かでないが、読む前からそういう期待を抱かせるのはたいしたものである。

「学術論文という制度の文体」の「文体」を書物というメディアそのものという線まで広げて考えていくと、ひつじ書房の房主が「15年寝ていても罰せられない人」とまで言い切った理由がほの見えてくる。

『文学者は作られる』の本文の方は、学術論文として発表したものをベースに一書としてまとめたもので、読み通すには時間がかかる。連休の間に読めるかどうかというところだ。

池田証寿編『古辞書とJIS漢字』第4号発行

【2001年4月23日】池田証寿編『古辞書とJIS漢字』第4号を発行した。今回は印刷部数を少な目にしたので、残りが僅かになってしまった。もっとも、購入希望のメールは2・3通というところなので、なんとかなるだろう。

表外漢字字体表

【2001年2月9日】2000年12月8日付けで答申された表外漢字字体表(国語審議会)のWeb版だが、依然として誤植の類が修正されていない。逐一指摘することはしないが、ちょっと国語審議会という組織が公開する文書としては、誤りが多すぎないだろうか。

昨日と今日は国語施策懇談会が東京赤坂の国際交流基金国際会議場で開催され、答申について説明があるとのことなのだが、情報機器へ表外漢字字体表の趣旨を反映させるためには、このあたりをしっかりしないといけないと思うのだが。

もちろん、印刷物の答申は誤植などなく正確に書かれている。Web上の文書に多少の誤植があっても、あまりうるさく言わないのだが、そのことは突き詰めて考えていくと、印刷されたテキストを「正本」とする考え方から出ていないということになるのではないだろうか。

文字コード関係のサイト

【2001年2月8日】「超漢字3」にはGT書体を搭載することになった。そのかわり「超漢字」と「超漢字2」に搭載していた今昔文字鏡を搭載されなくなった。そのあたりの事情は漢字文献情報処理研究会(漢情研)の掲示板に詳しい。また、行き先不明だったeKanjiの所在も判明したので、次に日本の主要な大漢字サイトをまとめておく。

GTはGTの検索用プログラムが公開されている。

また、最近話題のGB 18030については漢情研のGB 18030関連情報が参考になる。漢情研の掲示板は情報が早い。興味のある方はどうぞ。

北大総長選挙の推薦文書における表外字使用

【2001年2月6日】 2001年1月、総長選挙の推薦文書がいくつか送られてきた。 通覧して、常用漢字以外の漢字(表外字)がどの程度使われているか、 チェックして見た。

何回かの投票が繰り返され、その都度推薦文書が送られてきたが、そこまでは調査しきれなかった。最終的に総長候補者となったのは法学部のN教授だった。N教授以外はすべて理系であった。もちろん、表外字が多いか少ないかは得票に無関係だろう。ただ、文系に多いとはいえるかもしれない。

土屋信一「漢字使用の新しい傾向」『計量国語学』22-7、2000年12月12日、pp.303-305

【2000年12月某日】語種ごとの表記を分析することで、ワープロが日本語の表記に影響を与えたことを実証した論。

ワープロの使用が、日本語の表記に影響を与えるだろうということは、早くから言われてきた、漢字の使用が増えて、黒っぽい文面になったという印象はしばしば抱いた。しかしカタカナ外来語の急増もあって、漢字含有率からでは明らかな傾向を見出せなかった。語種ごとの表記を分析することによって、ここに訓の復権という新傾向が明らかになった。ワープロ表記が表記に影響を及ぼすことを、計量的に確かめたのは、おそらくこれが初めてであろう。私自身は全く予想していなかった結果である。


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