「This is 読売」12月号は「どこへ行く漢字」と題して 文字コード問題を特集。 坂村健、池澤夏樹、中沢けい、高島俊男の各氏がそれぞれの立場から 意見を述べている。私の理解しているJIS漢字とはずいぶんと 違った見方をされているようで、それはそれで興味深い。
ここでは、上記の各氏の意見にコメントすることはせず、 私の理解するJIS漢字規格を述べてみよう。ここ 何年かJIS漢字規格の改正とその拡張の作業に関わっており、 その作業を進めるJCS委員会WG2の一委員として の責任を果たしたいと考えるからである。
いろいろなかたちでその資産が蓄積されており、 インターネットで公開された範囲で考えてみても、それは すでに文化的資産と呼んでいい水準に達している。
したがって、過去の資産を切り捨てれば、これはまさに 文化を切り捨てたことになってしまう。そうならないようにするのが、 工業規格としての責任と考える。
これは、上記「This is 読売」の意見にも見られるところで、 ほぼ万人の了解するところ。 ただ、これだけを主張するのは無責任であると考える。
とりわけ、共有可能な過去の資産(まさに文化的資産)を保持しない 技術者や、 電子テキストの資産を作り出す努力をせずその利用のみ主張するユーザが、 インフラとしての文字コードの拡張の必要性を主張しても説得力を感じない。
今回の規格票は、 過去のJIS漢字批判者が、チームを組んで徹底的に資料を掘り起こし、 その分析を行ったものである。
文字の拡張は必要として、では、現行JIS漢字は何を 規定しているのか。どの文字があって、どの文字がないか、 従来の規格票を隅から隅まで検討しても、それが明確でなかった。 今回97年の改正は、関連資料を発掘した上で、 JISに無い字がどれであるのか、それを明確化したものである。
97JISの改正委員会の仕事は、JISの漢字規格を歴史的に位置づけようと したもの、現状を追認したものである。 文字コードは、かくあるべしという考えを提示したものではない。
したがって、国民の大多数が、 現行JIS漢字は使い物にならないと判断するのであれば、 さっさと別のコード体系 へ移行すればよい。そうするのに充分な材料が提示されている。
また、仮に、 別コード体系へ移行したとしても過去のJIS漢字の資産を継承出来る ようにした配慮したのが 97JISの改正である。
ついでに言っておけば、 「鴎」「涜」等の拡張新字体に関しては、 規格票の表現として節度を保持しつつ、 批判的な態度を、最も鮮明に表明している。その辺りを きちんと読み取ってほしいと思う。
今回の新JIS漢字拡張策定に際して行った調査とその成果は、 国語学・言語学の研究として見た場合、空前の業績として評価 されるものである。少なくとも、今回程度の規模で、現代日本語の 漢字が、 どれだけの分野(広さ)で、どの程度の必要度(深さ)を 持って使用されているか、 従来、ほとんど研究されてこなかった。 こうした研究自体、極めて「文化」的な事業である。 今回の新JIS漢字拡張の作業は、関係諸機関の協力とボランティアとして参加した 各委員の努力とによって遂行されている。日本の漢字に関する研究に多大の成果を 挙げたものと自負している。
仮に10万以上の漢字がコード化されるとしても漢字使用の広さと深さに関する 情報は必要不可欠である。たとえ、JIS漢字が<死んでも>、今回の研究の成果は生き残ると確信する。
このような実証的研究そのものを否定するのであれば、それは国語学や言語学という 学問のあり方そのものに誤りがあると主張するに等しい。
この点に関しては、予算・人員の関係で不足のところがあるかもしれない。 しかし、どのような方でも意見を述べることが出来るようになっていることは 確かであり、事実、各分野の専門家から委員会の席上意見を頂戴している。 (GT明朝紹介のパンフレットに登場される、東京大学文学部の長島先生 をJCS委員会お招きしてお話をうかがったこともある。)
最後に主張したいのは次の一点である。
現代の情報化社会の基盤としてJIS漢字規格が存在して来た事実 を認めよう。
親(JIS漢字規格)の悪口をいうなとは言わないが、 「文化」とともに批判的言辞を弄するなら、 それにふさわしい物言いがあると思うのである。