図書寮本名義抄には単字項より熟字項が多いが、その熟字項は慈 恩・玄応等の仏典音義・注疏類によるものが大半で、図書寮本の仏 教事典的性格を示すものとして説かれている。しかし、同一の単字 を含む熟字項は連続して掲出されるのが原則であり、単字について の注文が全く見出せない熟字項は皆無といってよい。このような点 は図書寮本が単字字書としての利用も想定していたことを示す。
図書寮本名義抄の単字字書的性格については、篆隷万象名義前半 四帖の空海原撰部との比較から述べたことがあるが(池田証寿一九 九三)、本稿では、篆隷万象名義後半二帖の続撰部と比較した結果 を報告し、図書寮本名義抄の編纂過程、辞書史上の位置、漢字字体 資料としての価値を述べたい。
類聚名義抄には、原本系と広益本系の二種が存する。原本系は清 水谷公揖家旧蔵、宮内庁書陵部現蔵の図書寮本が存するのみである が、広益本は唯一の完本である観智院本をはじめ、高山寺本、蓮成 院本、西念寺本が存する(以下、観智院本をもって広益本を代表さ せる)。
類聚名義抄と篆隷万象名義・玉篇との関係については、類聚名義 抄の書名の「名義」が篆隷万象名義によることが述べられ(山田孝 雄一九四三)、観智院本の反切釈義が篆隷万象名義と合致するも のが多いとの指摘もあったが(吉田金彦一九五二)、図書寮本の 出現で実証された。
観智院本と玉篇とが密接な関係にあることは、観智院本の篇目に 添えられた凡例の「立篇者源依玉篇。於次第取相似者置隣也。」と いう一節から知られる。この記述については、諸氏に論があるが、 玉篇の部首配列をそのまま踏襲したという意味ではなく玉篇のよう に部首で分類したことをいうのであり、その配列は撰者の創案にか かるとする岡田希雄(一九四四)の見解が基本的には承認されよう。 酒井憲二(一九六七)は、「取相似者置隣也」は部首の配列ばかり でなく部首内の字順にも認められることを明らかにした。貞苅伊徳 (一九八三)は、玉篇ないし篆隷万象名義と同じ字順の「玉篇字順 群」の存在を指摘、「玉篇」との関係を字順の点から実証した。
一方、図書寮本で篆隷万象名義は「弘」、玉篇は「玉」の略称で 引かれる(吉田金彦一九五四)。玉篇の頻度数約六〇〇は、第一 位の玄応音義の頻度数約一三〇〇に次いで第二位、篆隷万象名義の 頻度数約五二〇は第三位である(橋本不美男一九五一、宮澤俊雅 一九七七)。
また、「弘」「玉」の出現のしかたや注文の一致状況から「類聚 名義抄の撰者は、篆隷万象名義から引用する際に、前半のみを空海 の原撰と認めてこれを尊重し、「弘云」とし、後半は玉篇の単なる 抄録本と認めて「玉云」とした」といわれている(宮澤俊雅一九七 三)。さらに「名義抄の部立ては篆隷万象名義の目録と大いに関連 があり、掲出字の配列にも何らかのかかわりがあるものと思われる」 (宮澤俊雅一九八七)という指摘もある。
両者について検討した池田証寿(一九九三)では次の二点を指摘 した。第一に、図書寮本名義抄の撰者は、篆隷万象名義を全載する 方針ではなく常用字を採録しているらしい点。第二に、図書寮本名 義抄の各部(言足玉邑土心)の字順は、仏教要語・類似字形を優先 して配し、その後に篆隷万象名義の順に配するという傾向であり、 この傾向は、篆隷万象名義が図書寮本名義抄の根幹資料であったこ とを字順の面から示す点。以下では、この結論が篆隷万象名義後半 について妥当するかどうか、特に字順の問題を中心に考察したい。 なお図書寮本の「玉」が篆隷万象名義後半によるかどうかは不問と して論を進める。
まず図書寮本名義抄と篆隷万象名義後半五・六帖との対応の概要 を述べる。
図書寮本名義抄の全掲出項を対象として、篆隷万象名義後半(五・ 六帖)に対応する掲出字があるかどうか、図書寮本に玉篇の引用が あるかどうかを調査し、次の三種に分類した(表1参照)。
篆隷万象名義前半の状況について、各部ごとのデータは略し合計 のみ示しておこう(表2、池田証寿一九九三による。一部修正)。 「弘あり」は掲出字が篆隷万象名義前半に対応しその注文を「弘」 として採録、「弘なし」は掲出字が篆隷万象名義前半に対応するが その注文を不採録、の意である。
この結果から、図書寮本名義抄の総単字(異なり)のうち、篆隷 万象名義の前半と後半に掲出の単字は約八〇%を占めることが分か る。
玉あり | 玉なし | 篆になし | 計 | |
水 | 222 | 107 | 48 | 377 |
冫 | 6 | 9 | 10 | 25 |
言 | 0 | 0 | 0 | 0 |
足 | 0 | 1 | 0 | 1 |
立 | 2 | 2 | 0 | 4 |
豆 | 2 | 8 | 0 | 10 |
卜 | 7 | 9 | 0 | 16 |
山 | 24 | 41 | 24 | 89 |
石 | 14 | 49 | 28 | 91 |
玉 | 0 | 6 | 0 | 6 |
邑 | 0 | 1 | 0 | 1 |
阜 | 22 | 46 | 12 | 80 |
土 | 0 | 3 | 2 | 5 |
心 | 0 | 8 | 1 | 9 |
巾 | 23 | 19 | 4 | 46 |
糸 | 125 | 66 | 29 | 220 |
衣 | 54 | 31 | 26 | 111 |
計 | 501 | 406 | 184 | 1091 |
% | 45.9 | 37.2 | 16.9 | 100.0 |
弘あり | 弘なし | 篆になし | 計 | |
計 | 513 | 247 | 180 | 940 |
% | 54.6 | 26.3 | 19.1 | 100.0 |
篆隷万象名義前半対応の単字での「弘」の比率よりも、篆隷万象 名義後半対応の単字で「玉」の比率が少ないのは出典の採録序列が 関係しよう。図書寮本名義抄の主要な八出典(玄応撰一切経音義・ 玉篇・篆隷万象名義・真興撰大般若経音訓・源順撰倭名類聚抄・東 宮切韻・中算撰妙法蓮華経釈文・慈恩撰書、以上頻度順)の採録の 序列は、
慈恩撰書・篆隷万象名義・玄応音義・法華釈文・大般若経音訓・玉篇・東宮切韻・和名抄(一部推定)
であったと考えられ(宮澤俊雅一九七七、一九八六、一九八七、一 九八八、一九九二による。望月郁子一九九二、山本秀人一九九〇、池 田証寿一九九一も参照)、玉篇より序列上位の慈恩撰書・玄応音 義・法華釈文・大般若経音訓に同じ内容の音注・釈義がある場合に 玉篇の採録はないからである。これに対し篆隷万象名義(前半)は 出典の採録序列が第二位と考えられ、他の出典よりも優先された結 果、「弘」の比率が高くなったと見られる。
図書寮本名義抄に掲出字を採録するかどうかの規準について検討 する。篆隷万象名義後半から図書寮本名義抄に対応し、比較的用例 数の多い七部首(水山石阜糸巾衣)を取り上げ、両者の対応を以下 の三種に分類した(表3参照)。参考として篆隷万象名義前半での 状況も示しておこう(表4、池田証寿一九九三より一部修正)。
玉あり | 玉なし | 図になし | 計 | |
水 | 216 | 102 | 356 | 674 |
山 | 21 | 33 | 90 | 144 |
石 | 12 | 47 | 98 | 157 |
阜 | 21 | 43 | 77 | 141 |
糸 | 113 | 63 | 203 | 379 |
巾 | 20 | 18 | 90 | 128 |
衣 | 54 | 30 | 156 | 240 |
計 | 457 | 336 | 1070 | 1863 |
% | 24.5 | 18.0 | 57.4 | 100.0 |
弘あり | 弘なし | 図になし | 計 | |
玉 | 50 | 25 | 127 | 202 |
土 | 79 | 21 | 143 | 243 |
邑 | 30 | 11 | 173 | 214 |
足 | 51 | 48 | 99 | 198 |
心 | 136 | 70 | 215 | 421 |
言 | 135 | 45 | 189 | 369 |
計 | 481 | 220 | 946 | 1647 |
% | 29.2 | 13.4 | 57.4 | 100.0 |
表3によって、篆隷万象名義後半の掲出漢字の約四〇%が図書寮 本類聚名義抄に採録されていることが分かる。これは篆隷万象名義 前半と同じ比率である。もっとも表3と表4とを比べると、篆隷万 象名義後半七部首では「玉あり」の比率が、篆隷万象名義前半六部 首の「弘あり」よりも若干低い。これは前述した出典の採録序列が 関係するのであろう。
次に、玉篇(ないし篆隷万象名義後半)を実際に引用する際の規 準について考えてみよう。これは宮澤俊雅(一九八七)のいう通り、 常用性が関連すると思われ、篆隷万象名義の図書寮本名義抄採録字 と非採録字とを比べてみれば一目瞭然である。しかし、漢字の常用 性を客観的な規準によって判定するのはかなり難しい。池田証寿 (一九九三)では、JIS漢字(第一水準二九六五字・第二水準三 三九〇字・補助漢字五八〇一字)にあるかどうかを目安として調査 してみた。篆隷万象名義後半七部首についても同様の調査を行って みよう(表5参照)。
玉あり | 玉なし | 図になし | 計 | |
第一水準 | 197(43%) | 71(21%) | 19(2%) | 287(15%) |
第二水準 | 133(29%) | 109(32%) | 41(4%) | 283(15%) |
補助漢字 | 81(18%) | 101(30%) | 267(25%) | 449(24%) |
非JIS漢字 | 46(10%) | 55(16%) | 743(69%) | 844(45%) |
合計 | 457(100%) | 336(100%) | 1070(100%) | 1863(100%) |
表5によれば、図書寮本名義抄に採録された篆隷万象名義の掲出 字に、JISの第一水準・第二水準に属する漢字が多いことが歴然 としている。図書寮本名義抄に掲出の漢字に常用字が多いというこ とをJIS漢字での有無により証明できるとはいえないが、JIS 漢字との比較からそのような傾向を認めることは許されよう。
図書寮本名義抄に採録のない篆隷万象名義後半の掲出字で、JI Sの第一水準・第二水準にあるのは次の六〇字である。
確 徽 渠 窪 繰 裁 阪 碕 硝 飾 席 卒 泰 瀞 泌 繭 溶 溜 硫 崋 崘 嵒 嵎 幎 彝 汕 沁 汾 汳 洳 渙 滕 潁 潯 瀋 砠 碆 碌 磅 紂 絅 絖 絎 絛 絽 綮 縉 縢 縻 繃 辮 袗 袢 袤 裨 襭 阮 阯 陲 隗
不採録の理由を説明できる例もある。例えば「徽」は篆隷万象名 義糸部にあるが、図書寮本糸部にない。しかし観智院本彳部に掲出 されている。図書寮本に見えないのは、現存図書寮本に欠けている 彳部で採録したためと考えることができる(類例、渠・裁・飾・席・ 卒・泰・繭・彝・滕・縢・縻・阮)。
図書寮本名義抄において同一の単字を含む熟字は連続して掲出さ れるのが原則である。重出字は、「玉」を引く例・前出の例・注文 がより詳細な例を優先して比較の対象とする。
取り上げるのは、篆隷万象名義後半に対応する図書寮本類聚名義 抄の七部(水山石阜巾糸衣)である。各部の字順を次のa〜e群に 分ける。
群 | 玉篇引用の多寡 | 傾向 |
a | 玉篇を引くことが多い | 仏教の要語 |
b | 玉篇を引くことが多い | 類似字形・異体字 |
c | 玉篇を引くことが多い | 万象名義の出現順 |
d | 玉篇を引くことが多い | 韻書と関係あるか |
e | 玉篇を引くことが少ない | 特定の出典が固まることもある |
各部について字順の概略を示す。ただし各群の境界は明瞭ではな い。次に示した各群の前後の部分は、連続的なものとして見て頂き たい。
《水部》 | |||
水(四2) | ― | 澂(四五7) | b |
濫(四六1) | ― | (五六3) | c |
(五六5) | ― | (六三3) | e |
《山部》 | |||
山(一三五6) | ― | 蚩(一四五4) | e |
《石部》 | |||
石(一四七1) | ― | (一五七5) | e |
《阜部》 | |||
阜(一八六1) | ― | 隋(一九七2) | a |
墮(一九七5) | ― | 陵(二一一1) | e |
《巾部》 | |||
巾(二七七1) | ― | 帛(二八三7) | c |
帽(二八四1) | ― | (二八六3) | e |
《糸部》 | |||
糸(二八七1) | ― | 縁(二八九6) | a |
緑(二九一1) | ― | 緘(三〇五2) | b |
縒(三〇五3) | ― | (三一八7) | c |
糺(三一九2) | ― | 繻(三二六1) | e |
《衣部》 | |||
衣(三二七1) | ― | 衲(三三四1) | b |
(三三四1) | ― | 衫(三三九1) | c |
襦(三三九3) | ― | (三四四1) | e |
a群は、仏教要語を配する部分である。例えば、阜部では、「阿」 を含む掲出項(「阿弥陀」等)が十頁近くを占め、さらに「隨喜」 「隨眠」等の語が続く。糸部のa群は、三蔵(経律論)の「經」が あり、「素怛纜」(注に「茲云ーーー經也」)「索訶世界」「因縁」 等が見える。もっとも「糸―系―絲―經=緯― ―纜―素―索―縁」 (=は熟字項)と続き、b群の「緑」に繋がる字順は、類似字形も 意識していよう。他の部首にa群はなしとしたが、部首の冒頭付近 には仏教要語と見るべき語が掲出されるようである。例えば「法」 は水部で「水」および「水」を含む熟字の次に掲出される。衣部で の「袈裟」の位置もこれと同様。
b群は、類似字形・異体字を配するが、より前の方で類似字形に よる連係が密である。難字もあり、逐一順を追って説明できないが、 大雑把なところで述べてみると、例えば水部は、「水―洪―法―源 ―海―汝―滄=溟―渤=――江=河――池―滂=沱―沫=泡 ―汎―泛―氾――淀―濟―淮―漑=潅―注――準…」のように 続いている。「海・汝」「河・」「池・沱・泡・汎/泛/氾・・ 淀」「淮・注・・準」は類似字形と見られる(汎/泛/氾は異体 字関係にある字)。無論、意味による連係も考慮されていようし( 海・江・河・池)、熟字のため連係が分かりにくい場合もある(洪 は洪水、渤は溟渤として掲出されたため)。
c群は、篆隷万象名義すなわち玉篇の字順に従って配する。この 群で注目したいのは、玉篇からの引用が無くても玉篇の字順に従っ ている部分が見える点である。次頁表6に、水部c群の全例を挙げ る。
(説明)単字は重出字を除く。図本の4612は図書寮本46頁1行2段目の意。掲出項は熟字のみ示す。万象名義の所在は水部の序数による。水部以外は帖数と丁数を示す。備考のABCDは宮澤(一九七三)の分類によるものである。
- A 類聚名義抄と篆隷万象名義の注文が全同であるもの。
- B 類聚名義抄の注文が総て篆隷万象名義の注文に含まれているもの。
- C 類聚名義抄の注文のうちに、篆隷万象名義の注文が総て含まれているもの。
- D その他のもの。
以上のABCDはすべて図書寮本に「玉」とある例である。これ以外は玉篇からの引用が見えない。
なお異例には単字の前に*を付す。
単字 | 掲出項 | 図本 | 万象名義 | 備考 |
濫 | 4612 | 219 | A | |
* | 4614 | IV44ウ2 | ||
測 | 4622 | 222 | D | |
洌 | 4631 | 232 | A | |
涌 | 涌出 | 4633 | 227 | A |
湧 | 4643 | 228 | A | |
湧 | 4644 | なし | ||
渾 | 五渾 | 4652 | 234 | A |
淑 | 純淑 | 4664 | 235 | B |
*淋 | 淋滲 | 4674 | 490 | |
滲 | 淋滲 | 4674 | 243 | |
* | 頂 | 4723 | 311 | |
瀰 | 4733 | 251 | A | |
滿 | 4742 | 260 | B | |
4744 | 263 | |||
溢 | 4754 | なし | ||
溢 | 溢 | 4754 | なし | D(原本玉篇にあり) |
* | 4774 | 556 | A | |
溘 | 溘然 | 4811 | なし | |
澤 | 陂澤 | 4812 | 264 | |
滋 | 滋味 | 4844 | 276 | B |
滑 | 滑澀 | 4862 | 261 | A |
滸 | 滸盧 | 4911 | 285 | A |
4913 | 284 | A | ||
*淙 | 4914 | 212 | ||
4922 | 286 | |||
沸 | 4943 | 293 | B | |
4964 | 305 | A | ||
決 | 授決 | 4972 | 320 | A |
滴 | 一滴 | 5011 | 322 | D |
一 | 5022 | なし | ||
*滯 | 5044 | 396 | D | |
*瀝 | 5061 | 437 | A | |
沃 | 5071 | 328 | ||
渡 | 5114 | 331 | A | |
游 | 游泳 | 5131 | 346 | D |
泳 | 游泳 | 5131 | 339 | D |
淒 | 5143 | 349 | A | |
湊 | 湊集 | 5144 | 350 | B |
湛 | 湛然 | 5154 | 351 | B |
瀑 | 瀑流 | 5163 | 363 | C |
* | 5211 | 67 | ||
瀧 | 5214 | 370 | A | |
濃 | 濃淡 | 5224 | 387 | C |
5233 | 388 | C | ||
渥 | 渥地 | 5242 | 389 | |
湫 | 5244 | 413 | A | |
5254 | 420 | C | ||
湯 | 排湯 | 5262 | 424 | C |
漉 | 漉著 | 5274 | 438 | D |
波 | 5323 | 439 | D | |
5331 | なし | |||
浚 | 浚流 | 5332 | 442 | |
濬 | 深濬 | 5334 | 443 | |
滓 | 5341 | 448 | A | |
漿 | 5344 | 459 | D | |
澆 | 澆 | 5372 | 463 | B |
液 | 津液 | 5412 | 465 | |
汲 | 汲水 | 5421 | 488 | |
淳 | 5423 | 489 | A | |
*潼 | 淳潼 | 5443 | 6 | |
5461 | 498 | A | ||
漕 | 5463 | 517 | A | |
渉 | 渉入 | 5471 | 527 | C |
*瀛 | 瀛洲 | 5512 | 566 | A |
洲 | 瀛洲 | 5512 | 529 | |
5523 | なし | |||
5523 | 524 | A | ||
汞 | 5533 | なし | ||
濱 | 河濱 | 5541 | 530 | |
瀕 | 瀕 | 5544 | 531 | A |
浹 | 5551 | 535 | A | |
潺 | 潺湲 | 5553 | 551 | |
湲 | 潺湲 | 5553 | 553 | D |
潟 | 5562 | 552 | A | |
涯 | 涯岸 | 5564 | 554 | |
*沍 | 5574 | 573 | A | |
*渟 | 5611 | 582 | ||
池 | 5613 | 567 | ||
溏 | 5614 | なし | ||
溏 | 溏 | 5614 | 591 | A |
瀉 | 5622 | なし | ||
之 | 5624 | 647 | A | |
5633 | 650 | A |
異例は、熟字項(淋と滲)や類似字形(淙と 、沍と涯等)・異 体字( と淋、溢と )を考慮した箇所に認められることが多い。 玉篇を引かない例は、採録序列が上位の出典(慈恩・玄応等)があ るためと考えられる。一例を示す。
- 汲水 音急・广云―引水也―取也。クム易 ミスクム(図五四2)
- 汲 居及反引水(篆V99オ3)
- 汲水 金及反説文汲引水也広疋汲取也(玄応音義巻十四)
d群は玉篇を引くことが多いが、類似字形による配列も玉篇の字 順に従うこともない部分であるが、検討対象の各部には見えない。 篆隷万象名義前半対応の部首でもごく僅か見えたにすぎず、例外的 である。
e群は玉篇の引用が少なく部の末尾に位置する。追補的な部分で ある。
以上、図書寮本各部の字順は、前半に類似字形を配し、後半に篆 隷万象名義ないし玉篇の順に配するといえる(文字数の少ない部を 除く)。玉篇の字順に従う部分(玉篇字順群)の存在は、篆隷万象 名義ないし玉篇が図書寮本名義抄の根幹資料であったことを示すが、 この部分よりも類似字形を配する部分(類似字形群)が優先されて おり、類似字形を弁別することが図書寮本名義抄の編纂の目的の一 つであったと考えられる。
参考として各群の例数とその割合を示しておく(表7・表8)。 これによると類似字形群と玉篇字順群とで全体の三分の二程度を占 めることが分かる。ただし、前半では、玉篇字順群(C群)の比率 が高く、後半では、類似字形群(b群)の比率が高いという傾向で ある。この点は検討を保留しておきたい。
a群 | b群 | c群 | d群 | e群 | 計 | |
玉あり | 10 | 239 | 158 | 0 | 72 | 479 |
玉なし | 4 | 109 | 55 | 0 | 191 | 359 |
計 | 14 | 348 | 213 | 0 | 263 | 838 |
% | 1.7 | 41.5 | 25.4 | 0.0 | 31.4 | 100.0 |
A群 | B群 | C群 | D群 | E群 | 計 | |
弘あり | 33 | 82 | 312 | 34 | 26 | 487 |
弘なし | 5 | 24 | 40 | 7 | 135 | 211 |
計 | 38 | 106 | 352 | 41 | 161 | 698 |
% | 5.4 | 15.2 | 50.4 | 5.9 | 23.1 | 100.0 |
右に見たような図書寮本名義抄の字順の傾向はその編纂過程とど のような関わりがあるであろうか。
注目したいのは、類似字形群―玉篇字順群の順に配列され、その 逆に配列されない点である。これは類似字形群を主体とする字書の 編纂を目的としたために違いない。このほかには、以下のような点 が指摘できる。
第一に、玉篇字順群のなかに類似字形により配列が乱れた箇所が ある点。例は前節水部c群の一覧を参照されたいが、一旦玉篇の字 順に従って掲出字を配列した後で、類似字形を追加して行ったと考 えるのが自然であろう。
第二に、図書寮本では△を付して掲出項の補入を示した箇所がか なりあるが、そのなかに類似字形を意識して配列し直そうとした例 がある点。心部の「忠」(二三八7)は類似字形群に掲出されるが、 この注文の末尾と次項「懇到」との間に「△」の注記が見える。 これは「」の項を「忠」の次に入れよという意味であろう。「」 (二五七5)は玉篇字順群に掲出されている。
第三に、前項目と同一の字であることを示す「―」の誤用が類似 字形群に見える点。例えば言部の類似字形群のなかに「謇訥」「A(謇のをに作る)吃」「―於言」(八七1〜3)と続く箇所がある。「―於言」の「 ―」は図書寮本の通例からすれば「A」でなければならないが、内 容からは「訥」でなければおかしい(論語里仁「君子欲訥於言。而 敏於行。」による)。「謇訥」の項には「謇」「訥」両字の注が見 えていることからすれば、「謇訥」「―於言」とあったところに同 字だが字形の微妙に異なる「A」を追加したのであろう。
以上は、玉篇字順群を主体とした字書から類似字形群を主体とし た字書への配列替えを示すと考えられる。
では、山部・石部・阜部の三部にまとまったかたちで類似字形群 や玉篇字順群が見えない点はどう考えればよいか。冫部・立部・豆 部・卜部の四部は文字数の少ないという理由で字順の検討対象から はずしてあったが、字順にさしたる傾向が見えない点は山部・石部・ 阜部と同様である。これは図書寮本が「編者自身の(稿本類)でな く一伝写本であり(例略)しかも未精撰本であるといふこと」(複 製本解説)が関係しているのではあるまいか。図書寮本撰者は文字 数の多い部は比較的熱心に手を入れ内容を整理したが、文字数の少 ない部はさほど整理が行届かず、面部・歯部・色部の三部は掲出字 の採録すら行わなかったと考えられるのである。図書寮本が未精撰 本であることは、複製本解説が指摘するように掲出字の重出の多さ によって知られるのであるが、これ以外にも以下の点を指摘できる。 前述の面部・歯部・色部に掲出字がない点。玉抄の和訓には声点が なく後の増補かと疑われ(築島裕一九五九)、しかも玉篇前半部 分の部のみの採録である点。類聚名義抄と玉篇の部首が一対一で対 応しない掲出字に玉篇の部首番号の書込みが見える点(例えば図書 寮本石部の「磬」(一五六6)に右に朱で「三五二」とあるのは玉 篇巻第二十二磬部第三百五十二に対応)。
以上からすると、図書寮本の編纂作業には少なくとも三段階が想 定できる。
図書寮本の掲出項には仏典音義(慈恩・玄応・中算・真興等)に 依拠する例が多いことから、仏典音義の類から掲出項を集める段階 が最初にあったと推定してみた。図書寮本撰者はごく大雑把にいっ て、1→2→3の順に編纂の作業を行ったのであり、文字数の多い 部は2・3あたりの段階、少ない部は1・2あたりの段階を示して いるのではないだろうか。
なお、玉篇字順群の存在は篆隷万象名義・玉篇の出典としての重 要性を示すが、おそらく玉篇系の字書(篆隷万象名義・玉篇・大広 益会玉篇)を参照する便宜もあったであろう。
類似字形による掲出字の配列は、撰者の創案に係るのであろうか、 それとも何か依拠する字書があったのであろうか。
考えられるのは「字様」の影響である。「字様」とは「字音や字 形上の類似点を有するが故に錯誤に陥る可能性のある文字を、同字・ 別字の区別にかかわりなく、広く弁別するために撰述された小学書」 (西原一幸一九八四)であり、干禄字書(唐・顔元孫撰)がその 代表的な書物である。この「字様」なる書物については西原一幸の 研究が詳しく、図書寮本についても所引の干禄字書や一切経類音( 唐・太原處士郭撰)について考察している。干禄字書(略称「干」) については、図書寮本でこれを引用する際に、通体・俗体の表示を 欠くことはないが、正体の表示は少ないこと等を指摘(西原一幸一 九八七)、一切経類音(略称「類」)については、その基本的性格 が、吉田金彦(一九五四)のいうような「音義書」ではなく、「字 様」であることを述べている(西原一幸一九八八、一九八九)。
類似字形配列という観点からこの二つの書物を見てみると、干禄 字書では「溪谿 上通下正」のように異体字(異形同字)を正・通・ 俗により表示する例が大半で、「隋隨 上國名下追隨」のような類 形別字の例は少ない。図書寮本撰者が干禄字書の正体を重視してい ない点は、正体の掲出字がその所属部首で採録されない場合がある ことからも指摘できる(池田証寿一九九二)。干禄字書の引例数 約一四〇は、出典の頻度数として第十四位に位置し、図書寮本で比 較的重視されている出典といえるが、干禄字書の正体の扱い方には この書に全面的に依拠しない姿勢がうかがえる。ヒントにすること はありうると思うが、図書寮本における類似字形配列の直接の典拠 とはし難い。
一切経類音(逸書)はどうであろうか。一切経類音の引例数は約 一六〇であるが、これは出典の頻度数として第九位に位置する。こ の書が一切経の音義書であることは、吉田金彦(一九五四)の説く 通りであろう。上田正(一九八二)の紹介した後晋・可洪撰の新集 蔵経音義随函録三十巻(天福五(940)年成)の後序で可洪が「蔵経音 决」の一つとして郭 撰のものを挙げている点から裏付けられる( 西原一幸一九八八はこの資料に言及していない)。可洪は郭の 書について「或有統括眞俗。類例偏傍。但號經音。不聲來處〈即郭 及諸僧所撰者也〉」(〈〉は割注)と評している。この記述によれ ば、字体の正俗をまとめ偏傍により類別した書らしい。その本文は
一切経類音决云叱〈怒也〉嗚〈上於金反啼極无聲下於胡反歎辞也〉(高山寺蔵不動立印儀軌鈔、月本雅幸一九八九による。〈〉は割注)
類音决云【の異体】〈俗〉醐〈正皆胡音醍醐也二〉【酉+帝】〈二〉醍〈正皆啼□醍醐也〉醍〈正體音酒也又蹄音也〉(高山寺蔵本醍醐抄、宮澤俊雅一九八〇による)
のようであって、これは西原一幸(一九八八)の指摘の通り、「字 様」としての性格を持つものと考えられる。もっとも西原は音義書 でなく字様であるとするのだが(西原一九八九も同じ)、可洪は 音義書として挙げているわけだし、音義書の体裁を巻音義に限定し て考える必要もない。要するに一切経類音は字様としての性格を持 った一切経の音義書である。
しかし、逸文と比較してみると、一切経類音はさほど重視されて いない。
空 類音辯為俗辯為正皮免反(大乗理趣六波羅蜜経釈文3頁)
益云俗辯字(図書寮本九八2)
扶件切俗辯字(大広益会玉篇言部[巻上87オ])
謗誣 類音曰俗作 同(大乗理趣六波羅蜜経釈文38頁)
誣 上弘云武虞反…・真云…・广云…・下…(図八七4)
構 イツワリカマフ聿集解(同5)
埠阜 類音丁回反高也(大乗理趣六波羅蜜経釈文6頁)
埠 (この字図書寮本になし)
異体字の説明としては「「干禄字書」を主として採用しているの で「類」でのそれはむしろ従となつて」(吉田金彦一九五四)お り、一切経類音に全面的に依拠しているとすることはできそうにな い。図書寮本の類似字形配列に影響があったとしてもそれは全面的 なものではなく、ヒントにしたという程度であろう。
図書寮本に見られるような類似字形を意識した配列は新撰字鏡に もまま存在する(上田正一九八一、貞苅伊徳一九八九)。観智 院本の字順には類似字形配列が徹底していることは酒井憲二(一九 六七)の明らかにしたところであるが、観智院本と比べると、図書 寮本の類似字形配列はいかにも未完成の印象を否めない。とはいう ものの、新撰字鏡に比べて、その意図はかなり明瞭といってよい。 図書寮本は類似字形配列を本格的に取り入れようとした本邦現存最 古の字書であり、観智院本は図書寮本の類似字形配列をさらに徹底 させた字書と位置付けたい。
図書寮本の国語資料としての価値が絶大であり、多方面にわたる ことは、従来より説かれてきた。築島裕(一九七六)は、特に辞書 史・漢文訓読史・音韻史・語彙史の四つの面に絞りその価値を論じ ている。筆者は漢字字体資料としての価値、広くいえば文字史の面 から資料的価値を認めたいと思う。その理由は以下の通り。
第一に、前述したように、類似字形による掲出字の配列は、漢字 字体についての独自の研究に基づく結果であると考えられることで ある。
第二に、図書寮本の引用態度が原典に忠実であったことはつとに 指摘されている(築島裕一九五九)が、このことは掲出字の字体に ついても当てはまると考えられることである。その証明は難しいが、 同一の字についても字形上の微細な相違も見逃さずに記述している こと(前述「謇」の例)、原典の誤りをそのまま踏襲したかと思わ れる例が散見すること(「壟疏」(二三一1)の「壟」は誤りで「 壟」の下の「土」を「木」に作るのが正しい)等からいいうるので はないかと思う。
第三に、図書寮本の掲出字の字体には時代的・方処的な幅がある のではないかと考えられることである。図書寮本の出典が、中国お よび日本撰述の仏典の音義・注釈書類と字書・韻書、本邦伝存の訓 点本等、多方面にわたることはいうまでもない。そのなかに、宋韻 (広韻)・大広益会玉篇・宋本法華経のような最新の書物―これら は印刷された書物である―が含まれている。その一方で、「淵」字 を欠画したと見られる例「 フチ巽」(六八3)を掲げる。素直 に考えれば、この文選(巽)の訓は唐写本の姿を伝える本文に加点 されたものを拾ったのである。
右のうち第二と第三の二点は、実際の文献との比較により証明し て行く必要があるが、第一の点一つをとっても、図書寮本名義抄が 平安時代の漢字字体の資料としてその価値が高いことは充分に認め てよいのではないかと考えるものである。また、類似字形をどのよ うに記述してきたのかを追究することは文字史を考える上で一つの 視点になるであろう。
一、本稿を成すにあたり、石塚晴通先生、宮澤俊雅先生、小助川貞次氏から貴重な御意見・御教示を頂戴した。記して感謝の意を表す。
二、本稿で使用した漢字字書データは、情報処理語学文学研究会のテキストアーカイブに登録の予定である。内容は(1)図書寮本類聚名義抄と篆隷万象名義・玉篇との対照データ、(2)篆隷万象名義データベース試作版[図書寮本類聚名義抄対応]、(3)JIS補助漢字データの三種よりなる。またこのデータの作成に当たっては、豊島正之氏・金水敏氏・古田啓氏作の計算機用漢字字書(Ydic)を利用させて頂いた。記して感謝の意を表す。
(初出:「図書寮本類聚名義抄の単字字書的性格」国語国文研究94、1993年 7月31日)