(発表要旨) 東京都立中央図書館諸橋文庫蔵康煕字典の書き込みについて           池田 証寿 都立中央図書館諸橋文庫に諸橋轍次博士旧蔵の『康煕字典』内府本が二点 所蔵されている。その一本(請求番号823/MW/1)には夥しい書き込みが存 する。この書き込みは、昭和十四年から十五年にかけて、(戦前版の) 『大漢和辞典』刊行に必要な活字を作成するために、木版彫刻による作字 を指示したものである。諸橋『大漢和辞典』刊行の労苦を生々しく伝える 資料として貴重である。 『康煕字典』の親字の字体に不統一や不適切な点がまま見られることは従 来より知られていたが、それらがどの程度の規模と内容を持つかについて 充分に解明されていない。今回紹介する諸橋文庫蔵『康煕字典』内府本の 書き込みには、『康煕字典』の親字の字体の修正を指示した書き込みが 三百八十四例見える。この修正指示は、(戦前版の)『大漢和辞典』編纂者 が『康煕字典』の字体の不統一や不適切な点をどのように考えていたかを 知る上で注目すべきものである。 戦災によって原稿と印刷機材とを消失したため、戦前版の『大漢和辞典』 は第一巻を刊行するにとどまった。そのため、戦前版の『大漢和辞典』の 全体にわたって諸橋文庫蔵『康煕字典』内府本の書き込みの内容を検証する ことはできない。そこで、この字体修正の指示を現行の写植印刷による諸橋 『大漢和辞典』と比較してみると、三百八十四例の中、修正指示を採用す るものが二百七十六例、修正指示を不採用とするものが百八例、という結 果であった。 近時、国語審議会において表外字の漢字字体が議論され、印刷標準字体と して「いわゆる康煕字典体」を基本とする旨の中間報告が出されたが、 「いわゆる康煕字典体」そのものに関する実証的研究は必ずしも充分とは 言えない。『康煕字典』諸本(内府本、道光本、和刻本)の調査、『康煕 字典』を規範とする各種の漢字字書の字体、及び各種の明朝体活字の字体 の異同の調査など、課題は多い。諸橋『大漢和辞典』は、現在、国内で最 も権威的な漢和辞典であり、漢字字体に関しても規範とされることの多い ものである。本発表はそうした現代的な課題をも踏まえ、『康煕字典』内 府本の書き込みの歴史的意義を述べるものである。