東京都立中央図書館諸橋文庫蔵康煕字典の書き込みについて(要旨)  池田 証寿 東京都立中央図書館諸橋文庫に諸橋轍次博士旧蔵の『康煕字典』(内府本、殿版)が 二点所蔵されている。その一本(請求番号823/MW/1)には夥しい書き込みが存する。 この書き込みは、主に昭和13年から15年にかけて、戦中版の『大漢和辞典』刊行に必 要な活字を作成するために、木版彫刻による作字を指示したものである。諸橋『大漢 和辞典』刊行の労苦を生々しく伝える資料として貴重である。 『康煕字典』の親字の字体に不統一や不適切な点がまま見られることは従来より知ら れていたが、それらがどの程度の規模と内容を持つかについて充分に解明されていな い。今回紹介する諸橋文庫蔵『康煕字典』内府本には、親文字の字体の修正・追加を 指示した書き込みが約四百例見える。この修正・追加の指示は、戦中版の『大漢和辞 典』編纂者が『康煕字典』の字体の不統一や不適切な点をどのように考えていたかを 知る上で注目すべきものである。 戦災によって原稿と印刷機材とを消失したため、戦中版の『大漢和辞典』は第一巻を 刊行するにとどまった。そのため、戦中版の『大漢和辞典』の全体にわたって諸橋文 庫蔵『康煕字典』内府本の書き込みの内容を検証することはできない。そこで、この 字体の修正・追加の指示を現行の写植印刷による諸橋『大漢和辞典』と比較してみる と、408例の中、修正指示を採用するもの274例、追加指示を採用するもの17例、修正 指示を不採用とするもの111例、指示内容不明のもの6例、という結果であった。さら に戦中版の『大漢和辞典』の第一巻と比較したところ、新版では修正指示を不採用と するものでも採用している例があることが分かった。 近時、国語審議会において表外字の漢字字体が議論され、印刷標準字体として「いわ ゆる康煕字典体」を基本とする旨の中間報告が出されたが、「いわゆる康煕字典体」 そのものに関する実証的研究は必ずしも充分とは言えない。本稿はそうした現代的な 課題をも踏まえ、『康煕字典』内府本の書き込みの資料的価値を述べるものである。